僕は、飢えていた。 とにかく会社が忙しかった。 一月の仕事はじめから四月上旬までまる三か月、 一日も休みがなく、しかも毎日朝10時から夜は最低22時 (最高は明け方3時) まで働くという『パチンコ屋労働』。 遊ぶヒマなんぞまったくなかった。酒は飲んでたけど。 で、そのでかい仕事が片づいてやや生活に余裕ができ、 体力が戻ってくると、その反動がもろにきた。 最後に女の子にふられてから一年半、 会社を代わって職場に若い女性がまったくいないという状況に陥ってから、約八か月が経っていた。 「ふーぞくにいってきなよ」 Kはそういった。 ひさしぶりに一緒に中野にカラオケにいった夜だ。 彼女は僕の、いまでは唯一といっていい女友達だ。 「なんかさあ、いまのあなたって眼がぎらぎらしてんのよ。 端で見てて怖いもん。 このまんまじゃ性犯罪に走っちゃうよ」 自分がやらせてくれるといわないところがミソだが、 僕もKとやりたいとは思わない。 彼女は僕の好みではない (ちなみに僕も彼女の好みではないらしいが) ので、いまだに清い交際を続けていられるわけだけど。 とにかく、仮にも女性が「端で見てて怖い」というのは、 かなりヤバい状態ではないだろうか。 僕はそのことばに一瞬、本気で頭を抱えてしまった。 カラオケの帰りにちょっと怪しげな通りを歩いているとき、 「あ!」 Kが突然、すっとんきょうな声を挙げて立ち停まる。 「なんだよ」 「ねえねえ、あれだよあれ」 Kが指差した先には、いかにもって感じで、 『ファッションソープ 平成』 というピンクの看板があった。 「ちょっと、前通ってみようよ。べんきょうべんきょう」 Kはすたすたと歩き出した。 彼女は英語がまるっきり喋れないくせに夜のホノルルの街にひとりで出かけるという、 好奇心旺盛な、悪くいえばひどくひと迷惑な女だ。 僕はKの保護者のような気分で入口の前まできた。 『総予算一万円 入浴料四千円 サービス料六千円』 「ねえ、総予算一万円だって。 安くない?もうここしかないよ」 ひとごとだと思って、Kはそういった。 それから二週間くらい経ったあとだ。 僕はふたたびそこにいた。 今度はひとりで。 僕は当時、ふーぞくというものに関する知識がまるっきりといっていいほどなかった (いまもあるほうではないと思う)。 そこを訪れるまでに悩みに悩んだことは語るまでもあるまい。 二週間、頭のなかではずっと、こんな考えがぐるぐると廻っていた。 1.いきなしこわいおニイちゃんが出てきて、なにもせずに十万円とられる。 2.お母さんみたいな齢のひとが出てくる。 3.日本語の喋れないひとが出てくる。 特に2と3複合系は最悪だ。 僕は別にレイシストじゃないけれども、やっぱり女の子は大和撫子がいちばん、という考えを持っている。 しかも基本的にロリコンだったりする。 それでも、悩みに悩んだ末にそこへ足を運んだのは、 ひとつにはふーぞくというものに関する知識がまるっきりなかったこと (そういう店をどうやって捜せばいいのかさえ知らなかった。 つまり当時の僕にとっては、ふーぞく=“ファッションソープ平成”だったわけだ)、 そしてやはり、そのときの僕は、それほどせっぱつまった状態にあったということだろう。 <逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ。> なん度自分にそういいきかせただろう。 そして入口の手前で引き返し、また戻って、というくだらない行為を幾度か繰り返したのち、 ついに僕は、スモークガラスのドアを開けたのだった。 |