御都合主義だっていいじゃない

『夜は短し歩けよ乙女』 森見登美彦
(平成二十年十二月二十五日 初版発行・角川文庫)


このおはなしは、男女各一名の語り手による交互のモノローグによって構成されている。男性のほうは女性から「先輩」と呼ばれている。女性のほうは男性から「黒髪の乙女」と呼ばれている。ふたりは京都市内に存在する大学のそれぞれ三回生と一回生(東京ふうにいうと三年生と一年生)で、先輩が三回生、黒髪の乙女が一回生。

先輩は黒髪の乙女に恋をしている。その恋の描写というのが非常に涙ぐましいし笑えるのだが、ともかくふたりはサークルの先輩の結婚祝いの会に出席する。会がハネたあと、黒髪の乙女は「お酒が飲みたい」と思って二次会には向かわず、ひとりで夜の京都の繁華街を歩きはじめる。

そして黒髪の乙女の身を案じた先輩は、彼女の後をついて京都の夜を彷徨い歩くことになるのだが・・・。そこから彼らは、“すこしふしぎ”なひとびとが織り成す“すこしふしぎ”な世界に否応なしに、もっとも黒髪の乙女のほうは全然嫌がっていないのだが、巻き込まれてゆくことになる。

その、ひとびとや世界の“すこしふしぎ”が驚いたことに、気付いてみると全然違和感がない。京都という街の夜が醸し出す雰囲気の魔法のせいだろうか。もっとも僕が夜の京都の街を歩いたのは中学の頃の修学旅行、それも一時間ほどだけなのだが。

さて、そろそろ本題に入ろう。僕は「黒髪の乙女」に恋をしてしまった。なんじゃそれ、お前アホじゃねーの、と思ったかたは続きを読む必要はない。ものがたりの登場人物に恋をするというのは、読者にとってものすごく幸せなことだ。少なくとも、僕はそう思っている。

黒髪の乙女の愛らしさは彼女に恋する先輩のモノローグによって思う存分余すところなく語られてはいるのだが、逆に黒髪の乙女のモノローグで語られる彼女自身もものすごく愛らしい。小説の登場人物とはいえ、こんないい娘に惚れなかったらそれこそ嘘だろ。

ここで、小説(に限らず漫画やアニメもだが)の登場人物に恋をしてしまった場合の悲劇を語る必要がある。ゲームのように分岐点を自分で選べないメディアにおいて、ストーリィは常に一本道でしかない。読者がどんなに登場人物に恋焦がれようと、彼女の運命は作者のみが知っている。読者にはどうにもできない。

恋をしているのだから、当然彼女には幸せになってもらいたい。だから作者が不幸なほうに舵を切ると、ぐああああっと胸をかきむしりたい衝動に駆られる。ええいこの野郎俺の(お前のもんじゃないけどな)○○ちゃんをこんな目に遭わせやがってちくしょうちくしょう、となるわけだ。

しかしながら、彼女が恋愛で幸福になると、これまたぐああああっと胸をかきむしりたくなる。今度は彼女の恋愛相手の登場人物に向かって、この野郎俺の(繰り返すけどお前のもんじゃないけどな)○○ちゃんにこんなことやあんなことしやがってちくしょうちくしょう、というわけだ。

読者に感情移入のみならず、自分の造詣した作中人物に恋までしてもらえるのは、作者にとってものすごく幸せなことだ。 少なくとも、僕はそう思っている。しかし、よほどうまいこと着地させないと、自分が恨まれるか、自分が造詣した別の作中人物が恨まれる結果を生んでしまう。いやはや、ストーリィテリングって難しいよね。

ところが『夜は短し歩けよ乙女』ではその心配はない。僕はこの小説を読んでいる間、黒髪の乙女に恋しながら、同時に先輩の恋路を応援していた。黒髪の乙女とうまくゆくようにと、本気で祈っていた。つまり、僕は先輩にも恋してしまったわけだ。それほどこの先輩も読者にとってとても魅力的で愛らしい。

でね。もちろんあんまり詳しくは書けないんだけど、森見さんは本当にうまいことこのものがたりを着地させている。その過程は本人自身が登場人物に語らせているようにある意味「御都合主義」には違いないのだろうが、ええい御都合主義のなにが悪い。

おそらく自分で「御都合主義」と開き直ってみせたのは、森見さんの照れ隠しなんじゃないかと思う。“すこしふしぎ”な世界では、御都合主義でさえうまく落とせば笑いのネタになる。そして、その落としどころが実に京都。このものがたりの舞台が京都以外の街だったとしたら、この御都合主義はむしろ嫌味になっていたかもしれない。

そんなわけで、御都合主義だっていいじゃない。それを超えてありあまるうまさが森見さんにはあるし、ありあまる魅力がこの作品にはある。「諸君、異論があるか!? あればことごとく却下だ!!」

もっとも、困ったことに、僕はこの締めの台詞がこの作品のどこで出てきたのか思い出せない。非常に気に入っているにも関らず。もう一度読むのが手っ取り早いのだが、そうするとまた一気読みしてしまうので時間に余裕があるときでないと確認できない。本当に困ったものだ。


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