一歩手前のソフィスティケイト

『爆笑問題の日本原論』 爆笑問題
(1999年4月9日 第1刷発行・宝島社文庫)


 いやあ笑えた。久しぶりに電車の車内で周囲をはばかることなく(そんな余裕さえ与えられず)笑った。この本はそれほど面白い。

『爆笑問題の日本原論』はそのときどきの時事ニュースに対して爆笑問題が対話(漫才)の形式でギャグをかましてゆく、というものだ。

 いちおう漫才の形式を借りてはいるが、ちょっと読めばこれが口述筆記ではなく、ちゃんと活字として楽しめるように“書かれて”いることがわかる。

 採り上げられているニュースは'94年から'96年までのもの。時事ネタというのはおうおうにして旬を逃すとつまらなくなりがちなものだが、この本ではほとんど新鮮さを失っていない。

 たとえば「レーガン元大統領、アルツハイマー病公表」。介護保険(高齢者看護や医療)やら臓器移植(医師のモラルやインフォームド コンセントの問題)やら、最近メディアを賑わす話題に直接あるいは間接的に関わってくる。

 他にも「フランス核実験再開」は印パにおきかえられるし、「100チャンネルTV開局」問題は衛星デジタル放送のおかげでさらに拡大しているし、「北朝鮮IAEA脱退」なんてそのまま読める。

・・・ってまあ、そんなこ難しいことはどうでもいい。要は笑えればいいんだから。元ネタを憶えていなくても、あるいはまったく知らなくても、彼らの的確なボケぶりには否応なしに笑える。

 ところで感心したのは、彼らがふだん“タブー”とされていることまでネタにしてしまうことだ。金日成・正日親子のことを「“親子鷹”転じて“親子バカ”とも言われてるって話だけどね」「(お前)本気で殺されるぞ!」。こんなのは序の口。阪神大震災被災地への救援物資に対して、

> 「もう使わなくなった鉄アレイとか、思わず送っちゃいましたよ」
> 「送るなよ、そんなもん!」
> 「もう、僕は使わないから」
> (中略)
> 「救援物資にかこつけて、自分ん家を整理するなよ!」

 また、「中学生がいじめで自殺」事件について、「詳しく調べもしないで、いじめた側がとんでもない奴らだったと決めつけるのは危険」といったあとで、

> 「もしかしたらそいつら、脅し取った金をこっそりユニセフに
> 寄付してたのかもしれないし」
> 「そんなワケないだろ!」
> 「そうなると、いい奴なのか悪い奴なのか判断が難しくなってくるよな」

 いうまでもなく前者は「無償の善意」、後者は「いじめは絶対悪」を皮肉っている。ふつうこんなことをメディアはネタにしない。ニュースにしない。それはある意味“一般的な価値観”を破る行為だからだ。

 もちろんこれが本、つまり電波媒体よりは制約を受けにくく、広告主に左右されないという利点はある。しかし、あえて一般的に“善”、あるいは“弱者”とされるものさえ、あえて笑いのネタとして活用してゆく姿勢はすごいと思う。

 というのも、政治家や官僚や大国の核実験など、一般的に“悪い”、もしくは“強者”とされるものをネタにするのは、実は非常に楽なのだ。だって夕刊タブロイド紙の一面なんて、毎日のように政府の悪口でしょう。

 メディアは「救援物資、被災地に続々と到着」という記事は大きな見出しにする。が、「なかには使い古しの下着や、ツギも当てていない破れた服も大量に」という記事は報道されないか、あるいは小さな扱いになる。

 いじめ自殺についても、“いじめたほうが全面的に悪い”という風潮。自殺は悪くないのか。問題にま正面から向き合うこともせず、親やたくさんのひとを傷つけて泣かせて、自分だけ“いい子”になろうとする行為に問題はないのか。

・・・って、うーん僕が書いてるとどうもラディカルな方向に進んでしまうからイカン。解説で小林信彦さんは、

> この本に関する限り、二人(引用者注、爆笑問題のこと)
> ツービートよりソフィスティケートされていると思った。
(傍線本文ママ、ただし本文では傍点)

 と書いている。そう、たしかにソフィスティケートされている。その昔、ツービートは老人(つまり一般的価値観では社会的弱者)を攻撃し、笑いのネタにした。その容赦ない攻撃ぶりが逆に受け入れられた、という面がある。

 が、爆笑問題はタブーを笑いのネタとしつつも、危険ラインの一歩手前でするりとかわしてゆく。結果的には“社会的価値観”への批判をしながら、なるべく弱者を傷つけることのないような配慮がなされている。

 というわけで、いいたいことをすぐ口に出してしまうタイプの僕としては、その辺の勉強にもなりました。僕ももっとソフィスティケイトされないとなあ・・・。


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これは阪神大震災ではなく、10年以上前のアフリカ難民あての救援物資だった記憶があります。

現地のボランティアのかたがたが「難民でさえ着るのをためらうようなボロボロの服が大量に送られてくる。善意の品だけに気軽に処分することもできない。なんとかならないか」と語った小さな記事。

「自分ではもう着ない(着たくもない)服がたくさんある。貰ってくれるひともいない。でも捨ててしまうのは惜しい。そうだ難民なら着るだろう。服は有効利用されるし自分の善意も満たされるし一石二鳥」

ことばは悪いですが、これではほとんど“偽善”なのではないかと思います。なによりまず、送る相手を見下しているような気がする。ただ、どこからどこまでがそうなのか、という線引きはいちがいにはできないと思うのですが・・・