山崎とは会いたくない

『笑う山崎』 花村萬月
(平成10年7月20日 初版第1刷発行・祥伝社ノン・ポシェット文庫版)


 僕は痛みにものすごく弱い人間だ。包丁で指の先を切って血がどぱーっと(実際はそれほどの量ではないのだが)出たりすると、失神しそうになる。だけでなく、それがひとりでいるときだったら「いてえいてえっ!」と叫ぶ。

 叫んでどうなるというわけでもないのだが、とにかく叫ぶ。初期の興奮が収まると「いて、いてて」と呟く。それが過ぎると指先の疼痛が続く間じゅう、心拍音に合わせてアタマが「いた、いた、いた・・・」とリズムを刻む。

 だから、将来日本で内戦が起こったりしても、絶対に地下抵抗組織には入らないつもりでいる。政府軍に捕まったら「拷問するぞ」と耳許で囁かれただけであることないことべらべら喋ってしまって、“反乱軍を壊滅に追いやった男”として歴史に悪名を残すこと間違いないからだ。

 じゃあ自分がやるほうならいいのか、というとそうでもない。ひとが痛がったり苦しんだりするのを見ると、どうも自分に置き換えて想像してしまう。一度SMのビデオを観たら、鞭で打たれた女の子の悲鳴を聞いた瞬間、鳥肌が立って停止ボタンを押してしまった。

 さて、山崎。そういう僕だから、絶対にこいつの敵にはなりたくないと思う。とにかく敵には情け容赦のない男なのだ。

 山崎は“ヤクザ”だ。たとえば自分のいのちを狙った男を、示威行動のために、敵に廻った奴は容赦しないということを他の人間にわからせるために、ただ殺すだけではなく痛めつける、というのならまあわかる。

 ところが正面切っての敵だけではない。こいつは自分の思想に反する人間にも容赦しない。酔っぱらいのおっちゃんは、新幹線の車中で彼の家族にからんだというだけで殺されてしまう。もちろん、ただ殺すだけじゃない。その前にやる。そりゃあ徹底的にやる。

 いや、この小説の“完全映像化”なんてぜったい無理。観客の大部分は途中で胃の内容物を吐き出すために、トイレに駆け込むだろう。しかし、それこそが山崎なのだ。彼からそれを抜くことはできない。

 そのひとつひとつが・・・。それを決して楽しむわけでなく、冷徹にやり遂げ、しかも顔色ひとつ変えない、それこそが山崎。どうも彼の“やりかた”を見ていると、相手の肉体も精神もこの世に存在することが、いや、していたという事実さえ許せないのではないかという気がしてくる。

 だから僕は実は、山崎の味方にもなりたくない。なんせその片棒を担がなきゃならない。あんなことやこんなこと(ここではとても書けない)をする山崎を手伝って、その光景の一部始終を目撃しなければならない。

 あ、もう想像しただけで駄目。その場で気を喪うか嘔吐するか失禁する。そして山崎に「おまえ、駄目だな。生きてる価値もない」なんていわれて、また違った方法(しかしそれが辛く苦しいものなのに変わりはない)で殺されちゃうんだ。

 で、そのいかなる残虐行為(とまあ、書いときます)をも顔色ひとつ変えずにやる山崎だが、ものがたりの最中にふと、こんなことをいう。

> 「俺は、究極の、マイホーム主義者、なのさ」

 なんだと!? いや、実際そうなのだ。彼は妻の連れ子が自分に懐いてくれない、と真剣に悩む。「娘さんを叱っていますか?」と訊かれると「叱れんな。とても叱れん」と溜息をつく。娘に“あんた”呼ばわりされて一瞬カッとなるが、<けっきょく叩けなかった>。

 なんちゅー親馬鹿だ・・・。いや、まあそんなことはどうでもいい。残虐な拷問者と、マイホームパパ(少なくともそうあろうと努力している)。こんなアンビヴァレントな人間性が許されていいのだろうか。

・・・とこういうふうに書くと、「ナチスドイツでなん万人のユダヤ人をガス室送りにした将校は、家に帰ると理想的な父親だった」とか、そういう“資料”を提示されるかもしれない。しかし、それはあくまで“現実”。

 ちょっとはなしがそれるかもしれない。まあこれは海音寺潮五郎さんの受け売りだが、「こと小説においては、人物をありのままに書くと逆に焦点がぼけてしまう」。だから『平家物語』での平清盛、『太平記』の足利尊氏、『立川文庫』の徳川家康、みんな大悪人に描かれている。

 結局のところ、正義の忍者猿飛佐助が悪辣非道な狸親父徳川家康をきりきり舞いさせるから面白いわけだ。清盛も尊氏も家康も天下を獲っている。織田信長が木下秀吉の妻、ねねに送った手紙の例を見るまでもなく、冷酷非情なだけでは天下なんざ獲れやしない。

 現代小説にしてもそう。とりあえず対象をハードボイルドに絞るが、伊達邦彦にしろ連城重吾にしろ鯱グループにしろ、いや、以前紹介した『不夜城』の劉健一にしろ、「娘が懐いてくれない」なんて溜息をつく姿が想像できるだろうか?

 というか、逆に想像してみてほしいと思う。伊達邦彦が「娘を叩けない」と嘆く姿。うっ、なんてカッコ悪いんだ。どう考えても大藪さんがそんなヒーローを描きたがるとは思えない。いや、描いても一般に受け入れられないのは間違いない。

 ところが、そのアンビヴァレントな姿が、山崎にとってはまさしく魅力なのだ。一方で残虐非道な男の、一方で家族に向けられる傍目には笑ってしまうような愛情。そこに僕は、山崎がやはりどうしようもなく人間だということを・・・。いい換えれば人間くささを、感じる。

 小説のなかで、あえて二律背反のふたつの面を顕著に描く。いや、最初は僕も山崎のあまりの二重人格を納得できなかった。しかし読み進んでゆくうちに、それが奇妙にしっくりとくるようになってきた。それが実に自然なことのような気までしてくる。

 見事なのは、それがまったくものがたりに影響していないことだ。ふたつの性格は互いをぼかしあうことなく、逆にそれぞれを際立たせている。これは花村萬月というひとの、才能だと思う。いやまあ、才能がなきゃ芥川賞なんか貰えないだろうけど。

 まあ、気が向いたら読んでみてください。最後から二ページめまでで「う〜、やっぱ納得できん!」と思っても、心配する必要はない。山崎が最後の最後で、途轍もない名言で自らの行動原理を説明してくれるから。そのことばはもう、有無をいわせず納得させるパワーをもつ。

 あ、あと、この小説好き嫌いが激しいかもしれないので、あなたが読んでみて面白くなかったといっても、僕に文句はいわないように。


ご意見・ご感想はこちらへ

 
























































いうまでもなく(いってるけど)、大藪春彦“野獣シリーズ”の主人公。やっとシリーズ三作めを購入したので(『伊達邦彦全集』は全九巻あるが、本屋ではハヌケになっていることが多い)、これアップしたら読もう。






















































竹島将“野獣舞踏会シリーズ”の主要な登場人物。シリーズ第二作『凶獣円舞曲』より登場。

自衛隊特殊部隊出身の冷酷非情な戦闘マシーン。100mを8秒台で走れる(^^;。戦闘以外に感情を露すことはないが、実は過去に愛する妻子を爆弾テロで殺されて人間らしい感情を失ったという設定になっている。






















































西村寿行“鯱シリーズ”に登場する仙石文蔵、天星清八、関根十郎、十樹吾一の四人組。はっきりいって地球上でこの四人を殺せる人間は存在しない。

ん・・・、しかし十樹吾一は溜息つきそうな気がするなあ。あ、でも極度の女好きだからマイホームパパは無理か。