自由でいることの勇気

『バンコク下町暮らし』 下川 裕治
(1998年8月15日 初刷・徳間文庫)


 以前勤めていた会社に、Sちゃんという女の子がいました。僕とけっこう気が合って、よく仕事中にパソコンのキィを叩きながら眠気よけにいろいろはなしをしたものですが、こんなはなしを聞いたことがあります。

 Sちゃんのお姉さんは結婚していて、当時一歳になる男の子がいました。三月のある日のことです。ダンナさんが仕事から帰ってくるなり、いきなりこういいました。
「きょう、会社に辞表出してきたから」

 まさしく寝耳に水。驚いて、会社を辞めてどうするのかと訊くと、
「俺は教師になるんだ」
 ダンナさんは、教員免許はもっています。だから、七月の採用試験に向けて、今から勉強するんだ、と。

 なんの相談もなしに勝手に決めるなんてひどいとか、会社に勤めながらでも勉強はできるんだから辞表を撤回してもらえとか、採用試験に合格しなかったらどうするとか。しまいには双方の両親まで加わって説得したのですが、彼の決意は固く、予定どおりひと月後に退社して、採用試験に向けて勉強する日々に入りました。

「ねえ、お義兄ちゃんのことどう思う? ひどいよねえ、そういうの」
「そうかな。俺、カッコいいっていうか、羨しいと思うけど」
 本心からそういったのですが、Sちゃんにはその意味が理解できなかったようです。
「ふーん・・・。男って、わかんないね」

 ついでに書いておくと、Sちゃんのお義兄さんはその年の採用試験は不合格でした。しかし翌年の試験に再チャレンジしてみごと合格し、念願の教員になりました。

 さて、と。下川さんは“旅”のひとです。若い頃から貧乏旅行ばかりしてきた下川さんは、『12万円で世界を歩く』という格安旅行の企画で有名になりましたが、本来「心を癒やすための手段」である筈の旅を「仕事に売ってしまった」のではないか、という想いを抱きます。

 また、どこでどう調べたのか、三歳と一歳になる娘宛に届く膨大なダイレクトメール。英語教室、ピアノ教室、スイミングスクール、学習塾、etc.。

 海外には、成人してさえ文字を読めないひとたちが、数え切れないほど存在しています。しかし彼らはちゃんと生きていて、生活しているのです。なのになぜ、日本の子どもたち(だけ)は、幼い頃から習いごとをしなければならないのか。

 そして下川さんは、家族を連れて、大好きな街、タイの首都バンコクで暮らすことを決意します。奥さんを「お手伝いさん付の生活」というひとことで共犯者に仕立て上げ、娘たちふたりを引き連れて、実際にバンコクでの生活をはじめるのですが・・・。

 ここで、質問です。あなたは「妻と幼いふたりの子どもを連れて、仕事もせずに異国の地で暮らす」という行為を、どう思いますか。

 その顛末がどうなったかを知りたいひとは、この本を読んでみてください。面白くて、楽しくて、時にはちょっと切ないバンコクでの“暮らし”が、余すところなく綴られています。

 ひとつだけ、僕がひどく感銘を受けた一文を引用しておきます。

> 長女が突然、
> 「ガニュニブニアイ」
> といった訳のわからない言葉を口にし始めたのは、
> 幼稚園に通い初めて三、四週間が経った頃だったろうか。
> (中略)
> 娘たちの発音は、意味ではなく、耳で覚えたものだけに、
> その声調はくやしいぐらいに正確だった。
> どんなタイ人にもはっきり伝わるのだ。

 あー俺も幼い頃にアメリカとかイギリスとかオーストラリアとかカナダの英語圏とかで暮らしてれば、アとエの中間母音とかlとrの違いとかが耳で憶えられて、正確に発音できてた(かもしれない)のになあ・・・。


ご意見・ご感想はこちらへ