|
藤丸警部は北海部郡臼杵の人で安藤喜助の次男として生まれ、後に藤丸良助の家を継いだ。明治五年五月大分県捕亡吏を拝命。累進して十等警部に昇任し、佐伯警察署勤務となった。資性剛毅にして責任感が強く、職に精勤忠実であった。
明治十年西南の役が勃発したとき、同地方にも賊徒潜入の虞があったので、同署では千束分署を重岡に仮設することになり、藤丸警部がその分署長に任命され巡査十余人を指揮してこの地を厳重に警備することとなった。 同年五月十二日明け方、要所に派遣していた巡査が帰署し三百余人の賊徒が当地に向かっていると報告した。その報告の終わらぬうちに無数の銃声が聞こえてきたので、警部は急ぎ部下を集め 「全員が死を決して賊に向かっても到底防御できるものではない。今いたずら留まって命を落とすのは職を全うする道ではない。各員は速やかにここを去って一時避難せよ」 と、悟し部下を無事避難させた。 警部は、一人で熊本に潜入して事の急を鎮台に報告した。賊徒の一隊は重岡分署等を襲った後、二隊に分かれて一隊は竹田方面へ 一隊は臼杵・佐伯方面へ向かった。警部は熊本からの帰途、変装して直入郡に入り賊の様子を探っていたところを捕らえられた。賊は藤丸警部に投降を勧めたが 「自分は大分県警部で、大義の存する所を知る者である。どうして賊軍などに屈しようか。早く命を断て」 と、頑として自説を曲げなかった。賊は警部の信念の堅さをみて明治十年五月二十三日の朝稲葉河原においてその首をおとした。時に藤丸警部三十三歳であった。 現在、藤丸警部の墓は臼杵市平清水の大橋寺にあり毎年五月二十三日、殉職警察官顕彰会大分県警友会臼杵支部会員、臼杵警察署員等が藤丸警部をはじめ臼杵関係の殉職した警察官の慰霊祭を行っている。 |