吉野川第十堰の可動化計画
第十堰は江戸中期に旧吉野川への分水などを目的に、吉野川河口から約14`の地点に作られた固定堰。建設省はこれを撤去し、1.2`下流に可動堰を建設する計画を打ち出した。建設費は道路併用で1030億円。

※左図および上記説明文は、毎日新聞(大分県版)2000年1月24日朝刊、一面より転載、引用。


「吉野川第十堰可動化計画」の是非を問うた徳島市の住民投票で、「計画反対」が多数を占めた。今回焦点になったのは「投票率が50%を割れば開票さえされず、投票用紙は焼却される」という“前代未聞”の規定。

 この規定は「民意を反映しないから」という理由によるのだろうが、大笑いだ。選挙の投票率が10%でも、議員や首長の誕生は成立する。そういう経過のもとに生まれた代議士は大手を振っているのに。

 まあ、そんなことはどうでもいい。住民投票前、計画推進派は投票のボイコットをアピールするとともに積極的なPRをせず、「投票率の低下」を狙った。住民投票自体の無効化を最優先したわけだ。

 これ、おかしいよね。「投票が有効になれば負け」って自ら認めているようなものだ。対して反対派は、とにかく「投票所に脚を運ぶこと」を訴えた。「投票自体が無効=民意の無視=完璧な敗北」と考えたのだと思う。

 で、結果。投票率は54.995%で「成立」。新聞記事によると、反対票が102,759(90.14%、対有権者比率49.57%)、賛成票9,367(8.22%、対有権者比率4.52%)。当たり前だが、計画反対が圧倒的多数を占めた。

 今回の住民投票は、すごく面白い(といっては失礼かもしれないが)ケースだったと思う。まず、先に触れたように、計画推進派なら基本的に投票をボイコットしている筈だ。家で寝てるか家族と遊びにいけばいい。

 ところが、反対の10分の1とはいえ、わざわざ投票所に脚を運び、なおかつ「賛成」に票を投じた少なからぬひとびとがいた、という事実。これはなにを意味するのか。

 おそらく、彼らは計画には賛成なんだけど、「住民投票自体が無効になる」ことに危惧を覚えたのだと思う。それはすなわち、民意──賛成、反対を問わず──が、葬り去られる結果になるのだから。

 こんなふうに、有権者ひとりひとりが危機感をもっていれば、やはり投票率は上がるのだと思った。今回の投票が賛成か反対かだけの、シンプルなものだったとはいえ。逆にいえば、最近の選挙での投票率の低さは「棄権も意思表示のひとつ」という思想の顕れだと思う。

 いっそのこと、すべての代議士選挙で「投票率が50%未満なら無効」という規定をつくってはどうだろう。まあ、投票率が低いほうがトクをする政党が政権を握ってるんだから、実現するわけないんだけど。

 次に、建設省は「徳島市は洪水発生時の被害想定人口の約4分の1。いち流域住民の投票結果だけで計画の中止はできない」という見解らしい。だが、これを逆に考えてみればどうだろう。

 徳島市民は、万一洪水が起きた場合には、自らが被害者になることは間違いないのだ。にも関らず、「計画反対」が半数近く(棄権票をすべて「賛成」の意志表示と考えた場合)を占めた。

 つまり、自分の生命や財産より「環境」を選んだひとびとが、それだけ存在したということだ。長良川河口堰、諫早湾干拓事業など「国の事業に異議申し立てをする」一連の流れに、ひとつの結果が出たという感がある。

 建設省はこの意味を真摯に受け取り、汲んでほしいと思う。無闇(と、あえていうが)に新規工事をするだけが、カネの使い途ではない。アメリカでは環境調査や稼働率などをもとに、“不要”と認定されたダムは解体されるそうだ。

“破壊省”と悪名をつけられてもいい、「ではなんのためにつくったのか」と非難されてもいい。環境(人間のこころも含めた)や水産経済にとって悪影響を及ぼす建造物は勇気をもって解体していくほうが、未来にとってはためになるのではないだろうか。

 最後に。僕は(現在)大分県民だ。だから、思想的には反対でも、本来は吉野川可動堰や川辺川ダム(熊本県)の建設に対して、ああだこうだいう権利はない。

 そして、「計画賛成」のひとびとの気持ちも、充分に理解できる(つもりでいる)。自分の生命や財産が、他の人間の生活や希少動物より重いと考えるのは、ある意味当然のことだ。

 さらに、この不景気に、吉野川のケースでいえば1,030億円(さらに完成後、維持費に年間約7億円)が降ってくる。もちろんこういう大事業にはたいてい中央の大手ゼネコンが絡んでくるから、基本的にはそのすべてが地元に落ちるわけではない。

 だが、工事の経済的波及効果も含めれば、1,030億円はまず下らないだろう。流域人口が約100万人として、ひとりあたり10万円が転がり込むことになる。いまや死語となった地域振興券より多い。しかも現金だ。

 結局最後は、「どちらが正しいかわからない」と書いてお茶を濁すしかない。たとえばいま建設省が、僕のこよなく愛する大野川中流域にダムをつくる計画を発表したら、僕は絶対に反対派に入ると思う。

 でも、もし父が小さな建設会社を経営していたとしたら。妹が地元のゼネコンに勤めていたら(実際この前まで勤めていたが)。ダムをつくることで新しい会社が設立され、自分がそこで働けるかもしれないとしたら。

 やっぱり、結局「どちらが正しいかわからない」のだと思う。その意味でも、あえて「No」の意思を示すことに成功した徳島市のひとびとに、僕は敬意を表したいと思う。


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