国によっても違うんだろうけど、大学教授とか研究者とかならともかく、段ボール箱10箱ぶんくらいの本を一度に持ち込んだら、入国審査に時間かかるだろうなあ。なかにドラッグ隠してんじゃないかとか疑われちゃったりして。


 のっけから引用をしてしまう。

> 本作品中に、差別的な表現が含まれていますが、
> 著者が故人であるため、また作品成立上不可欠と判断し、
> 原文のまま収録しました。(編集部)

 これは隆慶一郎の『一夢庵風流記』、集英社文庫版巻末のただし書きだ。最初にこれを眼にしたときは、なんのことだかわからなかった。いま読み終えたばかりの小説のなかに差別的な表現なんてあったっけ、と思ったものだ。

 四回めくらいに前述の一文を意識しながら読んだとき、ようやく気がついた。たしかに結城秀康の台詞のなかに、いわゆる“差別的”なことばが含まれている。しかし、気付くと逆にムカついてきた。

「著者が故人であるため」とはなんだ。生きていればその部分を書き直させるのか。「作品成立上不可欠と判断」とはなんだ。不可欠でなければ削るのか。「原文のまま収録しました」とはなんだ。まるで自分のせいじゃないといわんばかりじゃないか。

 もうひとつ引用する。これは江戸川乱歩の『明智小五郎全集』巻末のただし書き。

>    おことわり
>  本作品中には、(中略)今日では差別表現として好ましく
> ない用語が使用されています。
>  しかし、作品が書かれた時代背景、および著者(故人)が
> 差別助長の意図で使用していないことなどを考慮し、
> あえて発表時のままといたしました。この点をご理解
> 下さるよう、おねがいいたします。(出版部)
(文中、傍線は引用者による)

 こっちは、より理解りやすいね。つまり「頼むから抗議はしてくれるな」といっているわけだ。

 今回僕は筒井康隆『笑犬樓よりの眺望』を読んで、はじめて氏の断筆宣言の真相を知ったわけだが、たしかに近年「ことば狩り」の傾向はどんどんひどくなっているように感じる。

 だいたい戦前に書かれた小説で“今日では差別表現として好ましくない用語”が出てこないものなんて、捜すほうが難しいのではないか。ということは、今後刷られる明治や大正や昭和初期の小説のほとんどすべてには、巻末に「おことわり」が掲載されることになるだろう。

 いやしかし、こうして「おことわり」さえしておけば出版できるうちはいい。もし「今後、“今日では差別表現として好ましくない用語”は一切使用してはならない」てなことになったらどうなるのか。

> 「殿! 前田……」
> 「俺は
耳の不自由な人じゃないぞ」
>  云い捨て更に走った。玄関に達すると怒鳴った。

 いや、たしかに作品成立上不可欠ですな。もしくは、

> 「殿! 前田……」
> 「俺は
×××じゃないぞ」
>  云い捨て更に走った。玄関に達すると怒鳴った。

 ・・・これではまるでお笑いか艶本小説だ。

 断っておくが、こんなことを書いているからといって、僕には差別を助長するつもりはさらさらない。実は“ことばを狩る”側の人間のほうに、むしろそういう意識をもっている連中が多いのだ。

 以前勤めていた会社に、こういうことばにやたら厳しいひとがいた。ところがある日、飲み会の席上で子どものいじめが話題になったときのことだ。

 なんとこのひとは小学生時代、同級生の知的障害者がいかに愚図でのろまで、そのせいで自分がいかに迷惑したかということを、楽しそうに語りはじめるではないか。どうやら「迷惑かけるからいじめられるんだよな」といいたかったらしい。

 僕は気分が悪くなって「俺はそういうはなしが大っ嫌いなので、帰ります」と立ち上がり、一万円札をテーブルに置いて本当に帰りかけた。慌てて他の人間に止められたが。

 健常者が「障害者の気持ちを考えよう」というのは、たしかに正しい。しかし、その意識のなかに「自分は障害者よりも優れている」という実にくだらない、しかも根拠のない優越感が見え隠れしているように思えるのは、僕だけだろうか。

 ちなみに、僕には障害者を特別扱いしようなんて意識はさらさらない。単に“同じ人間”だと思っているからだ。いや、だからといって駅の自動販売機の点字やTVの文字放送などに反対するわけではない。街で困っているひとを見かけたら、手助けしようという気持ちもある。ただし、これは道を訊かれれば答えるのと同じ論理だ。

 世に性格に欠陥がある人間(僕も含めて)はいくらでもいるが、彼らはそれで特別扱いをされることはない。同じことだ。性格に欠陥のある人間は、ときに仲間外れ(特別扱い)にされることがある。特別扱いすること自体が、差別の第一歩だと思う。

 いやまあ、そんなことはどうでもいい(どうでもよくはないんですがね)。困るのは「ことば狩り」によって、日本語の語彙が『1984年』みたいにがんがん狭められていくことだ。語彙が少なくなれば、表現の幅も当然狭くなってゆく。

 すでに10年くらい前から“○○○滅法”とか“○○○桟敷”とか“片○○○”などのことばが使えなくなってしまう、というようなことはいわれていた。

 しかし『笑犬樓よりの眺望』によると、筒井さんが連載していた某紙では「狂」という字が使えず、そのため「風狂」「酔狂」などの単語まで使用できなかったという。とんでもないはなしだ。狂ってんのはお前のほうじゃねーかとさえ思う。

「狂詩曲」や「狂言」はどうなるのだろうか、と筒井さんは書いているが、まったくだ。いや冗談ではなく。このままいけば日本は確実にエアストリップ1号化してゆくことだろう。

 まあ、万が一そうなったら、僕は“今日では差別表現として好ましくない用語”が使用されている本をもてるだけもって、外国で暮らそうと思っているんですがね。


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1992年12月20日 第1刷、集英社文庫。

蛇足かもしれませんが、原哲夫さんの漫画『花の慶次』の原作です。














































一九九五年六月二十日 第一刷発行、講談社大衆文学館 文庫コレクション。

小学生の頃少年探偵団シリーズを読みふけった身としては、懐かしいやら面白いやらの本でした。














































平成八年八月一日発行、新潮社文庫。

『噂の真相』に十年近く連載されたエッセイをまとめたもの。「消費税込みの紙幣を発行すればよろしい」には爆笑しました。薦めてくれたMさん、ありがとうございます。














































ジョージ・オーウェル著、昭和四十七年二月十五日発行、ハヤカワ文庫。

第11回の注釈でもちょっと触れていますので、ここでは詳しいことは書きません。酔書日常の英語版で取り挙げていますので、おひまなかたは読んでみてください。