新宿西口を彷徨する親子ふたりの図。まったくあのときは野宿を覚悟しました。
泊まったホテルから都有5号地(?)、つまり甲斐バンドの伝説のライヴ『THE BIG GIG』が行われた場所が見下ろせたのが、ひどく印象的でした。


 中学三年の春休み、つまり高校入学前の春休みのことだ。ある日の夕食後、父が突然、
「おい、明日東京にいくぞ。準備しろ」
 といい出した。いきなりなにをいうんだと思ったら、
「お前が将来受けるかもしれない大学を、いまのうちに下見させてやる」

 なにをボケたことこいてんだと思ったが、僕はそれまで東京にいったことがなかった。理由はともかく、まだ見ぬ土地に足を踏み入れることができるのは嬉しい。で、僕はそそくさと準備をはじめた。

 しかしそれはすごいハードスケジュールだった。初日。早朝から特急で福岡へゆき、九州大の文学部と教養学部、および西南学院大のキャンパスを見る。そのあと福岡空港から大阪の伊丹空港へ飛び、電車で京都に出て、京都駅前のホテルで一泊。

 翌日、午前中に同志社大→京大→立命館大と廻って、今度は新幹線で東京へ。中央線でお茶の水へゆき、明治大と日本大と東大の本郷キャンパスを見た後、新宿西口のホテルで一泊。

 そして翌日。午前中に高田馬場へゆき、念願の(父にとっての、だけど)ワセダを見る。午後は三田へいって慶応大。そのあと羽田空港から大分へ。で、やっと旅は終わった。

 ちなみに、怖ろしいことに父は飛行機も新幹線もホテルも、まるっきり予約とかチケットを用意していなかった。そのため福岡から大阪へは搭乗時刻を過ぎている機に無理矢理乗せてもらったし、新宿ではホテルが軒並み満室で、四軒めでやっとチェックインできたくらいだ。

 わずか三日間でこれだけの金を遣って(計算するのも怖い)、父が息子に伝えたかったのは、いったいなんだったんだろうと思う。いまだにわからない。

 さて、僕は高校生になった。第一回でも触れたが、現国の教科書で花田清輝さんの『ものぐさ太郎』を読んで、衝撃を受けた。

> やはり、本格的な飢餓を経験したのは東京にきてからだ。
> 大都会の真ん中で餓えるのは、まことに苦痛である。
> 水道の料金をはらわないと、容赦なく、水をとめられてしまうからだ。
>
> (中略)
>
> 水を飲んで散歩に出ると、銀座には食べものが氾濫しているのだ。
> クヌート・ハムズンの『飢餓』の主人公はカンナくずをくっていた。
> しかし、銀座には、カンナくずなど落ちていない。
> パール・バックの『大地』の主人公は、泥をすするが、
> 銀座には泥さえないのだ。
> ドアが廻転し、満腹した人々が、
> ゾロゾロとレストランから吐きだされてくる。

 どうしてこんな描写に衝撃を受けたのか、それに近い経験を経たいまとなっては、不思議な気がする。現在の東京も、この頃とあまり変わっていない。自分のある部分を捨てきれなくてしかも金をもたない人間は、飢えるしかない場所だ。

 しかし、この文章をはじめて読んだとき、たしかに僕は感動した。そろそろ親や妹と一緒に暮らすのに飽きてきた頃だったから、“群衆のなかの孤独”という存在が、自分の意識に強烈に語りかけてきたのかもしれない。

 もうひとつ、社会の教師でS先生というひとがいた。当時二十七、八歳だったろうか。國學院大の出身で、もちろん在学中は東京に住んでいた。このS先生がよく、授業の合間に東京の生活についてのはなしをしてくれた。

「駅徒歩一分で、すごく家賃が安い部屋があったんですよ。もう見もしないですぐに決めちゃってね。で、いってみたら、これが電車(たしか東横線だったと思う)の高架下なんです。電車が通るたびに、地震みたいにぐらぐら揺れてね。まあ寝に帰るだけだから、と思ったら、東京って終電が遅くて始発が早いでしょ。終電が終わってうとうとしたらすぐ始発で起こされて・・・。結局三ヶ月で引っ越しましたけど、そのうち二ヶ月は友達の下宿で寝てました」

「学生の頃に吉野屋の牛丼を食って、『なんてうまいんだ!』と思いましてね。もう半年間毎日毎日そればかり食べてたら、ある日、前歯がぱきって折れちゃったんですよ。医者にいったらカルシウム不足だっていわれまして、それからはなるべく定食とかも食べるようにしました」

 それらは僕に、小学校の頃の“シンガー&ソングライター”を思い起こさせた。自分の部屋を自分で決める自由。半年間牛丼だけを食べ続ける自由。

 もちろん、ひとり暮らし=東京暮らしというわけではない。しかし、“シンガー&ソングライター”、『ものぐさ太郎』、S先生と、僕が感銘を受けたひとり暮らしは、みんな東京でのものだった。ぼくは“東京での生活”に憧れたんだと思う。

 そして僕は、東京の大学だけを受験した。そのうち一校に運良く合格して上京し、そしていままで東京に暮らしている。それがどうだったか、これからどうなるのか、ということは、いまはあまり、考えたくない。


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『もうひとつの修羅』
一九九一年二月一○日第一刷発行、講談社学術文庫
に所収されています。














































ただ・・・、えー・・・。当時好きだった女の子が京都の短大に推薦入学を決めていたので、「通ったら追いかける、落ちたら諦める」ということで、同志社大だけは受けました。俺ってこういう奴です、すいません。