記憶を元に、MSペイントで“ダメおやじ”を描いてみましたが、もちろんぜんぜん似ていません。古谷三敏先生、ごめんなさい。せっかくスキャナ買ったんだから、使えよな。でも手で描いたほうが下手くそだからなあ、俺。


 九州の片隅で生まれ育った僕が、「将来は東京で暮らしたい」と考えはじめたのは、いつの頃からだったろう。

 僕の父は変な奴で、折にふれては「いいかお前、大学はワセダだ。ワセダにいくんだぞ」といっていた。まだ僕が小学校に上がる前で、海のものとも山のものともまるっきりわからない頃からだ。

 ちなみに父は中央大学を中退している。なんでトウダイでもキョウダイでも自分の母校(中退だと母校っていわないか)でもなく、ワセダにそれほど拘泥していたのか、父の死んだ今となってはまるっきりの謎だ。

 そして「ワセダだぞ」といわれ続けた割に、僕は保育園から高校まで全部公立(妹ふたりは大学も公立)で、塾にも予備校にも通ったことがない。参考書も問題集も、学校から支給されたものしか使っていなかった。赤本は三冊、自分の小遣いで買ったけど。

 結局僕は、ワセダを受験さえしなかった。親父もそんなに息子をワセダに入れたいなら、暗示にかけるだけじゃなく、小さいときからそれなりに投資するべきだったんだよなあ。

 まあ、そんなことはどうでもいい。ワセダという大学は東京という場所に存在するということも、当然父は併せて語った。実はこれがメインだったような気がする。というのも、中学三年くらいになると、さすがに僕もワセダというのがそう簡単に入れる大学ではないらしいことを、うすうすわかってきた。

 で、一度「ワセダなんて俺には無理だよ無理だよ〜」と喚いたら、父は「ワセダが無理なら、とにかく東京の大学にいくんだっ」とちょっと悲しそうにだけど、妥協してくれたからだ。だから、僕はまず、父に東京志向をプリンティングされたといっていいと思う。

 じゃあ自分自身でそれを意識しはじめたのはいつかというと、小学校五年生の頃だ。誰かがもってきて教室に置いてあった週刊少年サンデーに、古谷三敏さんのこんな漫画が載っていた。

 ダメおやじ(古谷さんの漫画のキャラクター)はなんでも屋。ある日、中年の婦人がお客としてやってくる。

「うちの息子、大学生でいまアパートでひとり暮らしをしているんですが、その部屋を掃除してほしいんです」
「はあ。仕事ですからなんでもやりますけど、そういうのはお母さんがやってあげたほうがお金もかからないし、息子さんも喜ぶのでは?」

「ダメなんです」
「はあ?」
「私、息子の部屋があまりに汚いので、五分となかにいられないんです」

 とりあえずダメおやじは件の部屋に向かう。これがたしかに汚い。いま思うと、現在の僕の部屋のようだった(←をい;)。
「ひとり暮らしの若い男の部屋なんて、こんなもんでしょ?」
大学生は平然という。
「まあ、そうかもしれないねえ」

 まあ食器でも洗うか、と茶碗を取り上げたダメおやじは驚く。茶碗の内側に、乾燥した飯粒がびっしりと貼り付いているではないか。

「キ、キミ。これ・・・」
「ああ。洗うのめんどくさいんでいつもそのまま使ってたら、少しずつ溜まっちゃって。だんだんご飯を盛れる量が少なくなってきて、困ってるんです」

・・・妙なはなしだが、小学生の僕はこのくだりを読んで、からだが震えるくらい感動してしまった。「茶碗を洗うのがめんどくさいから、そのまま使う」。これはまったく正しい思想だと思った。

 ともかく、ダメおやじは必死こいて部屋を掃除し終える。その間、大学生は手伝うでもなく、なにもしないで見ているだけ。いや、なにもしていないということはない。ギターを弾いている。仕事とはいえさすがにちょっとムカついたダメおやじは、皮肉混じりに訊ねる。

「キミ、なにしてんの?」
「曲をつくってるんです」
「曲?」
「シンガー&ソングライター。自分でつくったうたを、自分でうたうんです。僕のうた、聴きますか?」

 もちろん辞退するが、大学生は強引に自作のうたを聴かせる。これがまたひどい。曲もひどいし、うたも下手。歌詞も、なにをいってるのか皆目わからない。

 ともかくおつきあいで三曲ほどを我慢して聴き、ダメおやじは部屋を出る。あー今日はひどい目に遭っちゃったなあ。満天の星の下をとぼとぼと家路につきながら、ダメおやじは考える。でも・・・。なぜか、彼が羨しくも思える・・・。

 小学生の僕も、彼を羨しいと思った。というより、憧れた。すごくカッコいいと思った。シンガー&ソングライターということばを知ったのはそのときがはじめてだったが、その語感にもしびれた。若かった(というより幼かった)んだなあ。

 その大学生が、たしかワセダの学生という設定だった。いや、ワセダはどうでもいい。僕は彼に憧れた。彼のように生きたいと強く感じた。とにかく東京だ! まず東京でひとり暮らしをしなければ、彼のようには生きられない! そう考えたのだった。

 これが僕のなかに東京志向が芽生えた最初。しかし、小学生でこんなこと考えるかね、ふつう。いま自分の部屋が汚いのって、これに端を発してるのかなあ・・・。「三つ子の魂百まで」って、よくいったもんだ。

 このはなしはちょっと長くなったので、次回に続きます。


ご意見・ご感想はこちらへ

















































大学受験の頃は政治にも経済にも法律にも興味がなかった。もっとも政経を狙えるほどの偏差値ももっていなかったけど。あ、いい忘れてましたが僕は完璧な文系人間です。

唯一入りたいと思え、しかも微かにでも合格の可能性があるのは第一文学部だけだった。ここは当時、受験科目が国語と英語と小論文。僕は日本史が死ぬほど苦手だったからだ。

しかしそれも、「一年次の成績で専門に振り分けられる」と知ってから受験する意欲が落ちた。当時は父の経営する会社の状況が最悪で、大学に入ればバイト漬けの毎日になることがわかりきっていたためだ。

そのうえ第一文学部の試験は高校の卒業式と重なってしまった。紡木たく さんの『みんなで卒業をうたおう』を読んで感動した僕は、卒業式には絶対に出るつもりでいた。さらに、所属していた陸上部の追いコンは、卒業式の日に行われるのが恒例。だから、ワセダは願書も取らなかった。

受験の直前、父に「ワセダは受けるのか」と訊かれて、以上の理由で受けませんと答えると、「卒業式だから受けないなんてことがあるか」とひどく悲しそうな顔をされてしまった。もちろん一文を受けるために卒業式を欠席した同級生は、なん人かいた。全員玉砕したけど。