ともこさんがいちばん最初に憶えた
日本語は、“すけべ”だという。
それもなんか、ムカつくなあ。
でも、ともこさんに“しゅけべ”と
いわれると、自分がほんとにスケベ
な男のような気がした。
  


 この間池袋で飲んでいたら、終電がなくなった。
「せっかく終電もなくなったことだし(?)、おもしろい店にいきましょうか」
 T君がそういうので、僕とSさんは彼についていった。

 それは、たしかにおもしろい店だった。 いや、あやしいといったほうがいいか。 店自体はふつうのカラオケパブなんだけど、女の子がみんな異人さんだ。 フィリピンパブとかは聞いたことがあるが、 その店はフィリピーナはもちろん金髪娘にチャイナドレスのおねえちゃんまで、 多種多様。 とにかく統一性というものがまるでない。

 僕ら三人の席についたのは北京出身在日五年の呉 (ウー。記憶は定かではない) さんと、フィリピンのセブ島出身で在日三年のマリーン (記憶定かでない) さんだった。

 マリーンさんはときどき難しいことばにつっかかるが、 呉さんの日本語は完璧に近い。 かなり微妙ないいまわしも平気で理解するし、自分でも使う。 Sさんとデュエットした日本語のうたなんて、ヒロスエよりうまいくらいだった (別に他意はありません)。

 でもまあ、そんなことはどうでもいい。 そのうち呉さんに指名が入ったらしく、代わりに別の女の子が席にやってきた。
「コンバンハ、トモコデス」
 “ともこ(記憶は定かでない)” というのが彼女の本名じゃないことは、 そのたどたどしい日本語で一瞬にしてわかった。

 ともこさんは大塚寧々に似た、とてもかわいらしい女の子だった。 ところが、彼女は日本語をほとんど理解できない。 なにせ「中国広東省の出身で、日本にきて半年」というのを訊き出すのに、 十五分かかったくらいだ。

 SさんとT君はそうそうに手間のかかるともこさんとのコミュニケイションを諦め、 マリーンさんとの会話に花を咲かせている。 なので、ともこさんのお相手 (ほんとはこっちが相手してもらってるんだけど)は、 僕ひとりに任された格好になってしまった。

 ここで僕までがマリーンさんと喋りはじめたら、 ともこさんがあんまりかわいそうじゃないか。 ほかのひとはともかく、僕はそう思うタイプの人間だ。 で、意を決して、
「Can you speak English?」
 と訊くと、
「りとる、ネ。はろー、あいらあびゅ、さんきゅー」

 だめだこりゃ、どうすりゃいいんだ。 僕が途方に暮れた顔をしていると、ともこさんがいった。

「ワタシ日本語、ナイ。アナタ、中国語ナイ。同ジネ、同ジ」
「そうだよね。 俺が知ってる中国語なんて、ニイハオとシェイシェイとツァイツェンとウォ アイ ニィくらいだもんな」
「スゴイアナタ知ッテル中国語、ソレ漢字書ケルカ?」

 そのことばに、僕は天啓を受けた。 そうだ、筆談だ! なにか筆記用具はあるかと訊くと、 ともこさんはカラオケのリクエストカードの束を持ってきた。 僕はボールペンで、

我愛称(ウォ アイ ニィ、『私はあなたを愛する』。注1)>
 と書いた。 それを見た瞬間、ともこさんはとても嬉しそうな表情になった。 コミュニケイションが成立した瞬間だ。 僕はこのときほど、中学・高校で漢文をやっていてよかったと思ったことはない。
  
 僕はまた、リクエストカードに書いた。
我思称美麗(私はあなたが美しく麗しいと思う)>
 すると、ともこさんがそれに答えて書く。
称言嘘(あなたは嘘をいっている)>
 で、僕がまた書く。
我言真実(私は真実をいっている)>

「嘘じゃないよ、あなたは大塚寧々に似てるもの」
 と、これは声に出していった。 するとともこさんは、
「ソノヒト、眼、細イカ?」
なにがはじまったのかとこっちを注目していたSさんとT君、 そしてマリーンさんは、このことばに大いにウケた。

 ちなみに僕の手許には、ともこさんと交わした筆談の記録 (かつてリクエストカードだったものの束) がぜんぶで十枚、いまだに残っていたりする。

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 鷺沢萠さんの『サクラも花、ケナリも花』に、こんなエピソードが紹介されている。 鷺沢さんが韓国にいったときのことだ。 ホテルのエレヴェイタの前で、 ひとりの日本人のおっさんが案内係に日本語で訊いた。
「おい、レストランはなん階だ?」

 若い韓国人のボーイさんは、笑顔で答えた。
「ハイ、ロカイデス」
 するとおっさんは馬鹿にしたような笑いを浮かべて、
「ロカイじゃなくて六階だろ、もっと日本語勉強しろよ」

 ・・・上のエピソードに憤りを感じたひとだけを、僕は友としたいと思う。 中国語を理解できず、英語だってアメリカの保育園児ていどにも喋れない僕に、 ともこさんの下手な日本語を笑う資格はない。

 でも俺、英語を喋れない奴を人間と思わない、 英語圏のある種の人間たちも、実は嫌いだったりするんだよね。


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”は、にんべんです。 中国語の“you”。 このあともぜんぶそうです。 フォントがなかったので、ごめんなさい。