モデルは友人の鈴木くんだ。
ただしパンクのみんながみんな、
こんなカッコをしてるわけではない。
むしろこういう“ありがち”な
カッコをしてる奴のほうが少ない
だろうと思う。
そのため僕はかつて彼をモデルに
『パンクじゃない』という曲をつくり、
けっこうウケた(本人にも)。




 僕はさらぱんです。 さらぱんとはなにかというと、 「おろしたてのぱんつ」とか「サランラップに包んで冷凍したパン」とか、 「サラミソーセージを肴にお酒を飲むのが好きなパントマイマー」ではありません。

 “サラリーマン パンク”、 すなわちサラリーマンでありながらパンク志向であるひとのことです。 似たようなモノとして“金満パンク” (父親は某有名カメラマンで実家は国立の一戸建てで長男、 本人は某広告代理店勤務で月収手取り四十万[現在二十五歳]、 にもかかわらず「俺はパンクだ!」といい張ってるひとのこと) や“銀行員(バンカー)パンク”、 それぞれ略して“金ぱん”“銀ぱん”などがあります。

 ここで、 ちょっとお齢を召したかたがたやものすごく若いかたがたに、 そもそも「パンク」とはいったいなにか、 ということを説明してみたいと思います (実は僕もよくわかっていません。 これを読んでいるあなたが本物のパンクスだったら、 怒らないでください)。

 パンク(Punk)は、 音楽的には英ではセックスピストルズやクラッシュ、 米ではラモーンズが代表的なようです。 なによりも演奏がへたくそであるというのが特徴ですが、 ドラムとベース、 あるいはそのどちらか一方はうまくなくてはなりません。 もっともたまに、 ピストルズのようにギターとドラムがうまくてベースがへたくそというような例外はあります。

 ファッションでいうと、 黒の無地かキャラクター (アメコミか硬派のミュージシャンが望ましい) 入りの長袖Tシャツ、 ズタボロに破れたスリムのジーンズ、 安全靴 (踏まれても痛くない合皮製のブーツ)、 というのがトラッドなスタイルのようです。 オプションとして、 ピアス代わりの安全ピンやメイドインUKの革ジャン (これは夏冬関係なくご使用になれます) などをつけてもよいでしょう。

 思想はトム ウルフ流にいうと、
「堅牢な階級制度にペエッと唾を吐きかけること」
をモットーとします。 そして基本的に“ビンボー”です。 ちなみに<ビンボーは思想だ!>といったのは、 週刊ポストで連載をはじめるまえの前川つかさです。

 もともとパンクはイギリスの労働者階級から出てきた音楽またはファッションのスタイルですから、 上に挙げたような属性を持ちます。 安全靴は工事現場に欠かせないものですし、 キャラクター入りのTシャツは竹下通りで2枚千五百円で売ってる黒夢やGRAYのTシャツと同義だと思えばよろしい (よろしくない部分もかなりありますが)。

 ところで、ここまで(ちゃんと)読んでくれたかたなら、 “さらぱん”の矛盾についてすでにお気づきのことでしょう (“金ぱん”・“銀ぱん”についても同様です)。

 どこの世界にそんな格好でお得意さん廻りをするサラリーマンがいるでしょうか。 僕は以前、内勤であるのをいいことに、ブルーハーツのTシャツにもういいかげん色の落ちまくったリーヴァイスのスリムで出勤して、当時の上司に、

> ジーンズはともかく、ブルーハーツのTシャツだけはやめてくれ!
> せめてジミヘン(ジミ ヘンドリクス)にしろ!

 と泣きつかれたことがありますが、そのときも足元はケッズでした。

 また、サラリーマンこそ、
「階級制度に唾してはならない」
ひとびとではないでしょうか。 かれらは階級制度があるからこそ、上を向いて歩いてゆくことができるのです。

 そしてビンボーなサラリーマンは(僕を含めて)たくさんいるでしょうが、パンクは基本的に定職に就かないからこそビンボーなのです。 階級制度を忌み嫌うパンクは、定職に就く (階級制度に組み込まれる) くらいなら、決然とぷーの道を歩みます。

 では、“さらぱん”とは現実には存在しえないライフスタイルなのでしょうか?  僕はこう考えています。

 たとえ外見はスーツ姿でも、心にズタボロのジーンズと安全靴を履いてればいいのだ。 たとえ上司や、もっとうえのほうのひとから怒られようと誉められようと、心のなかで唾を吐きかけてりゃいいのだ。

 僕は大学を五年半かけて卒業しました。 最後の半年は単位がふたつしかなく、週休六日です。 さすがに仕送りを停められたため、コンビニエンスストアでアルバイトをして生計をたてていました。

 大学を九月に卒業してからも、四谷に週一回いかなくてよくなったというだけで、基本的な生活パターンはなんら変わりませんでした。 僕はこのまま十年くらい、ぷーでいたいと思っていたのです。

 すると、十二月中旬に突然父が上京し、僕を訪ねてきました。 九州の片田舎から、予告もなしにです。 そしてこういいました。

> 来年三月までに就職しなかったら、大分に強制送還する。

 冗談ではありません。 僕はあのクソみたいな町から逃れるために、東京の大学しか受験しなかったのですから。

 ともかく、僕は慌てて年明けとともに職業安定所に通いはじめ、どうやら強制送還はされずにすみました。 しかし魂だけはぷーのまま、もうなん年かが過ぎようとしています。

 「魂がぷー」。 これこそが、“さらぱん”の基本なのです。 前田慶次郎利益のように、服部半蔵正成のように。 または三代目魚武濱田成夫のように、生きてゆくこと (『北斗の拳』の雲のジュウザという説もありますが)。

 花田清輝の『ものぐさ太郎』という評論のなかに、「ごろりと寝転ぶという抵抗」といったニュアンスの一文があります。

> たとえ飢えても、あくせく働くよりはごろりと寝転ぶほうを
> 選びたい。

 僕はこの文章を高校生のころ現国の教科書で読んで、ひどく感動したことを、いまだに鮮やかに憶えています。 もしかするとその当時すでに、“さらぱん”としての意識が芽生えていたのかもしれません。

 そういえばこの文章は、最初“さらぱん”の説明をして途中で急に自分の個人的な体験に入るあたり、“ものぐさ太郎”にそっくりですね。 友人は僕の文体を“村上春樹影響下的文章”だといいますが、自分では花田さんの影響を受けてると思うんですが。

 最後に。 “さらぱん”は僕の友人鈴木くんの造語です。 なので、他に転用したいというかたは、僕を通じて彼に連絡をとってください。 まあ彼はそんなこと気にする人間じゃないとは思いますけどね。
               



この文章は、『ゴジラ 17('94・10)号』に掲載されたものに加筆訂正したものです。 商業誌ではないので、勝手に自己コピーしてしまいました。 関係者のかたがたがもしこれをご覧になられた際は、メールをください。


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